北国脇往還を歩く・・・①-1

森の妖精

2010年11月15日 19:51

            昨年から一年遅れでやっと「北国脇往還を歩く・・・」を
            スタートさせることができました 
 
 
            日本中に街道と呼ばれる道はどれくらい存在するのでしょうか?


            北国脇往還とは「北国街道」の脇道であり、その名前が
            ついたのは明治20年代後半だとか・・・
            ではそれまでは?と言うと、「北国海道」と呼ばれていたようです。
         

            メインの道からは忘れ去られた道ではあるけれど・・・
            北国街道をショートカットでつないでしまう頼もしい道だからこそ
            「脇」に控える良さも発見できるのかも・・・


            そんな思いでスタートしました・・・


            戦国時代に重要な役割を果たした「脇往還・・・」に残る
            歴史的な遺物・道標などとの出会いや道に咲く花々を
            観察しながらのんびり歩きたいと思っています・・・   



            関が原(岐阜県)~木之本までを結ぶ約36km・・・その第一歩?


            今回は関が原~野頭 (ジョイ伊吹)までの約10.7kmを歩くことに
            しました・・・

 

            脇往還の始点の道標がR21線沿にある十六銀行・
            関が原支店前にあったのですが今は歴史民俗資料館に
            移設されています




                始発点から東に数mのところにある 脇本陣   




   八幡神社のスタジイ (ブナ科)


  実は食用になり、材は建材・家具材・

  椎茸の原木、また樹皮は染色にも

  使われます。

  かつての本陣の庭の一角にあり、

  歴史の移り変わりを

  見守っている生き証木かも

  知れませんね・・・








                            東首塚             
           関が原合戦の戦死者は数千人とも言われ、徳川家康は陣場野で
           部下がとってきた首を実検して東と西の二ケ所に埋めた。
           東首塚・西首塚ともこの地の領主竹中家が作ったものと
           言われています・・・




                        首洗いの古井戸


               

     

      徳川家 床几場跡














        首実検をしているところ







 



        手入れの行き届いた生垣の住宅が続く小池の集落はかつて島津隊の陣地が
        あったことなど想像出来ない簡素な雰囲気である・・・





       島津義弘陣跡












         島津義弘陣跡を過ぎると小関の集落ここを通り抜け、R365を横切り、
         しばらく歩いて再び、R365に出ると「伊吹山口」の信号、車道を歩いて
         すぐに次の信号「玉」からわき道に入り、再度R365を横切り集落に入る・・・




              奥平貞治の墓と碑


         小早川義秋の友軍の大谷隊を

         義秋共々その陣頭にあたったが

         一時後退した時に奮戦むなしく

         戦死を遂げる・・・

         墓は子孫の奥平貞昭によって

         建てられた・・・
    








                      ヤマラッキョウ (ユリ科)


                ここはまだ岐阜県です・・・県境まであと一息 
                でも先はまだまだ続きま~す・・・



















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